ゆっくりとさよならをとなえる

いざ、生きめやも/さよならの学者に、なりたい

音楽

彼にお別れされて以来、私は音楽を聴かなくなった。どの曲を聴いても、いいと思えば思うほど、むなしくなるのだった。以前は点滴を受けるように、音楽を摂取していた(といっても、気に入った同じ曲を何度も聴くというだけだった)けど、今は、たまに食べる甘すぎるお菓子のように、ちょっと摂取しただけで過剰を感じるのだった。音楽はなんのためにあるんだろう。どの曲にも、感情移入ができない。どれも平板で、対岸の火事で、世の中で私だけが音楽と無縁だと、聴くたびにそう宣告されるようだった。

考え事をしながら、音楽を聴くということを以前はよくしていた。公園を1時間歩いて、音楽を聴いて考えをまとめる。今はそうでもない。音楽があると、せつなすぎて、なにもまとまらない。それからというもの、私の片頬のチックが始まった。音楽を聴いたところで、おさまるわけのないヒステリー。私は文章を書いている時も、音楽を聴くときも、映画や絵をみる時も、いったいどうありたいのだろうか。客観を手に入れたいのだろうか。そのわりに、文章が支離滅裂で自分でも困っている。脈絡なく話したところで、客観はあらわれない。たんにデトックスをしたときのような清涼感があるだけのことで。

有名になって、これまで分断してきた出会いと別れを一列につなげたい。私は私がひどい目にあったという自覚を捨てたい。そのぶんだけ幸福になれたんだから、と自分を慰めたい。しかし、こうした人間には永遠に栄光など訪れない。本当に必要な人のもとに、出会いや栄光がやってきたためしなど、この世にはないのである。

しかし、音楽は違う。音楽は、もちろんその時々の出会いのタイミングもあるだろうけれど、基本的に自分が能動してしっくりくる曲にその時出会う。今の世の中には音楽があふれているから。私は馬鹿な音楽にまみれて暮らしたい。揚げたてのドーナツに容赦なくくっつく砂糖。あれが音楽ならいいなと思う。けれど、私は今、どの音楽にも出会いたいくないんだ。新しい音楽なら、これまでを忘れさせてくれる、最高に内容のないものだけをききたいと思うし、すでに知っている音楽を改めて聴くには私はくたびれすぎている。

音楽との付き合い方をすっかり忘れてしまった。記憶からずっぽりと抜け落ちたようだ。人との付き合い方を忘れたのと同じタイミング、同じ質。音楽は、コミュニケーションに似ている。

私を問わない音楽に出会いたい。私を問わない物語に出会いたい。私を問わない絵を見たい。私は、これまでの血縁関係も、人生のちょっとした経緯も、すれちがって別れた誰彼も、無関係だと強く私を撃つ光に出会いたい。そして、私がそれに出会ったら、今度は私がその光になりたい。そうして、そういった「問わない」人々の仲間入りがしたい。そのためには、「問われてもそれが何ですか」という姿勢を貫かねばならない。そういう人間に、私に、音楽は最適だと思うのに、それでも私は音楽が聴けずにいる。つまらなくて。こうして私から音楽を取り上げた別れがあるということは、また私に音楽を授ける出会いがあるということなのだろうか?音楽とともにやってくる人が時々いる。というより、出会いというのは、新しい音楽のはじまりじゃないだろうか。