ゆっくりとさよならをとなえる

いざ、生きめやも/さよならの学者に、なりたい

【小説】春(5)

「正直に白状すれば、俺はあなたと続くはずの未来にとりつかれることに疲れていたんだ。それであなたとの恋愛をやめてしまった。だけど、今は、俺にはあなたが必要なんだと気付いた」
「急に気付いたのね」と言って、彼女が笑った。彼がまじめな顔をして、彼女を見つめている。彼女が急に神妙な声で訊いた。「なぜ」
「あなたほど俺を愛してくれる人はいなかった。ただそれだけです」と彼が答えた。
彼女は全身の血が逆に巡って行くのがわかった。これはなんだろう。愛しさなのか、憎らしさなのか。しかし、彼女はもうそんなことには興味なんてなかった。彼と続くはずの未来にとりつかれることに疲れていたのは彼女も同じだった。彼だけじゃない。自分自身が恋愛状態にあるということにつねに自尊心が傷つけられているのは、誰も同じだ。
向かいに座っていた彼が、個室出入り口側に座っている彼女の隣に来て、座った。彼女は少し、身構えた。彼は、彼女の右手をとって、両手で包んだ。
「・・・・・・僕の誕生日に、お祝いのあいさつをしてくれたのは、あなたですね。名前が書いてなかったけど、わかったんだ。ほかの誰にもなにも言われなかったけど、あの手紙だけが、あなただけが、僕の23歳を祝ってくれた・・・・・・」
彼女はぼんやりと彼の顔を見詰めていた。彼は感動に胸打たれているようだった。彼女はアイスピックのことを考えていた。桜はもう散った。どこに咲いているのだろう。寒い北へ行けば、まだ咲いているのかもしれないけど、ここには咲いていない。もうだからといって、もう春が終わったわけでもない。花をめでるでもない、暖かい弛緩を喜ぶのでもない、この春をどこに埋めたらいいんだろう。春を埋める。そういうことが人生にもあるのかもしれない。そういえば、以前まだ彼と付き合っていた頃の春に、桜の花びらが敷き詰められたように散った地面におもちゃのピストルが横たわっていた。私が、桜とピストルって面白いね、春はこのくらい物騒なほうがいいのかもしれない、と言ったら、「本物でもいいくらいだね」と彼が返事したんだったな。一緒に公園を歩いて、あの時は幸福だった。未来永劫、そういう春にとり付かれる少しの疲労と倦怠。けど、二人はふたりだった。

帰りましょう、と彼女が言った。彼は少し傷ついたような顔をした。それから、そうですね、と低い声でゆっくり言った。彼が立ち上がって、壁に掛けてある上着をとるために、後ろを向いた。彼女は、なにも思わず、バッグの中のアイスピックを右手に持った。彼が上着の中にある携帯電話を取ろうとして、まだ後ろを向いていた。彼女には予期せぬチャンスが来た。もしこれがなかったら、どうなっていただろう?彼と彼女はまたふたり、幸福とはいかないまでも、おだやかな不幸の中、生きていったのかもしれない。彼女はちょっと惜しい気がして、少し彼の首筋をじっと見た。一瞬だった。けど、背中の肩甲骨の左下を思い切ってアイスピックを彼に突き刺した。彼はぐう・・・・・・、と言って、右ひざを立ててがくん、としゃがんだ。彼女はそこにさらに首筋に向かってアイスピックをもう一度向けた。頸動脈から、いっきに血潮が噴き出て、個室はそこらじゅうに彼の血を浴びた。壁も、テーブルの上の食器も。彼はうめいた。
彼女は彼の顔を無表情で見返した。彼は、彼女の方を振り返って、なぜ、と問いたげな、あるいは、苦痛を押し殺してそれでも生きようとするような、表情でいた。彼と彼女の眼差しの真空管ができたような一瞬が個室によぎった。やがて、彼は瞼を閉じて、こと切れた。彼女は一滴も彼の血潮を自身に浴びなかった。

彼女は、一睡もしなかった。それでいて、ずっと本当の夢を見たような、むしろこれまでにないすがすがしい気持ちで独房の窓から朝日を眺めていた。春の朝の空は、雲間から鮮烈な陽の光があたりを赤くして、まるで新鮮な血が滲んでいるようだった。彼女の顔も、それで赤く照らされた。やがて、金属音をさせた人間がやってきて、時間だ、と言った。振り向いた彼女の顔は、昨日の薄化粧のまま、紙のように白かった。警官は、朝焼けの赤に白い顔がそこに浮かんでいるような景色に胸打たれた。
彼女の独房での日記に、こう書いてある。
「可能性を無視することは、人間には難しいことだ。私はあの朝焼けに、可能性を殺して生きることがある可能性、を見出した」
警官はひそかに彼女を美しいと感じていた。