ゆっくりとさよならをとなえる

いざ、生きめやも/さよならの学者に、なりたい

【小説】春(4)

「僕たちはいわば、感情のやりくり――経済論的に破綻したんだ」彼がそう言った。僕、と言いなおしているのに気付いて、ネクタイを締めているのはずの彼がなんだか幼く見えた。
「そうね」と彼女が言う。
「正しいさよならもせずに、お別れしてしまったわけですしね」と彼が言う。
彼女は、ふふっと笑った。あまりにもわかりがよすぎる彼のさとい言葉と、これまでに彼女が一人で過ごした――誰と居ても・どこに居ても、致命的に”出会い損なっている”という感覚から逃れられなかった――時間とのずれに思わずこそばゆくなったのだ。どこに居ても、彼の不在だけが彼女の現前に隆起して、誰の前に立っていても、彼女の眼が映写機になって彼の幻を映した。彼女は、そういう時間を過ごしてきたのだった。幻だと思って弔った人が今現実の肉体を持ったひとりの人として自分の目の前にいる。彼の呼気、声、全身から発散される体温、気配。
そう、お金、あなたが請求した分を用意したから、と言って彼が封筒を出した。そう、と言って彼女は中身をあらためもせずに受けとってバッグにしまった。中身が入ってようが入ってなかろうが、興味がなかった。彼は少し驚いて、なにか言いかけたけれど、結局口をつぐんだままでいた。
「正しいさよならは」と彼女が言う、「冬に大きな喧嘩をしてあなたと別れると私が言った時に、あなたを受け入れずにいたら、できていたのよ」と彼女が低い声で言った。目の前にろうそくが一本揺らいでいて、その炎を見つめているような口ぶりだ。瞳がとても深い静かさをたたえて黒色をしている。「『あれは必要だったんだ』とあなたは言った事があったけれど、もうとっくに壊れていたのに、私は馬鹿な事をしたと思ってとても後悔したのよ。けど、」薄化粧の彼女が顔を上げて、白く内側から光を仄めかした、「こうして、再び会えたんだものね」
彼女はテーブルの上にのった彼の左手にそっと触れた。彼の温かい手。春の気配。
「俺は、・・・・・・あなたを忘れられなかったんだ。白状すると、あなた以外の女性と関係を持った事もあった。それは一時的に俺を慰めた。その時の俺にはどうしても必要な事だった。いろんなことをしてきた。そうして自身を落とせるところまで落とそうと思った。だけど、あなたを過去にするには、どれも役に立たなかった。それで気付いたんだ。もう一度、あなたと会って、話して、俺は俺自身の答え合わせをする必要がある、と」
「一生気が向かないんだろうと、思っていたのにね」
「俺にも意外だった・・・・・・、けど、あなたと会える距離に居る場所に今自分が自立しているんだと気づいてから、無視できない気持ちになっていたんだ」
そうでしょうね、私にはわかっていたのよ。彼女は、彼の手に自身の手を重ねて、うつむきながらそう思っていた。
涙が頬を伝った。「意地っ張りなあなたにしては、上出来ね」彼女はこんな皮肉を濡れた声で言って、姿勢を改めようとした。しかし、涙があとからあとから、あふれて来る。
彼は自身に重ねられていた彼女の手を握った。そうして黙った。
「あなたは、私以外の人ともそうだけれど、『アバンチュールには興味がない』といいつつ、アバンチュールという構造の中でしか生きられなくて、そこで最善を尽くそうとする気の毒な少年だった」と彼女が言った。「そうだと気付いたのは、いつだったの?」
「わからない」と彼が言う、「もしかしたら、一生気付かないままなのかもしれない。それとも、今から、変わるのかもしれない」
「年上の人が好きなのね」
「あなたが好きなんだ」
「やっと言ってくれた」
彼が、不思議そうな顔をして彼女を見た。
「あなたは、私に告白する時にも、『好きだ』という言葉を避けて言わなかったから、それを思うと」と、彼女がちょっと思い悩んで、どれが一番適切な言葉かを考えている様子だった、「大人になったわね」