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ゆううつ日記

いざ、生きめやも/さよならの学者に、なりたい

【小説】春(3)

こうした経緯があって、彼女は今から彼と会うのだった。表に出ると、春の宵は17時を過ぎても華やかな空色をしていた。薄紅色の、懐かしい雲が浮かんでいて、それをずっと追いかけて行きたい気もした。その雲を追いかけて旅行に行くのも楽しいだろうな、と彼女は思った。昔と比べて死にたい気持ちはほとんどなくなっていた。いまでは彼女は暮らしにそこそこの満足をおぼえながら、不足な顔をして往来をいく小市民の一人だった。
行きしなにコンビニエンスストアのごみ箱を見つけて、そこにレジ袋で包んだ鉢植えを捨てた。彼の面影を感じたアブラゼミの死骸と彼女の親知らずと咲かなかった花の腐った根がある鉢植え。レジ袋でくるまれたそれらは匿名のままごみ箱の暗闇に落ちていった。
待ち合わせは18:30、予約時間は19:00。落ち着いて話せる個室を彼が選んだ。別れる以前一度一緒に来た事がある店だ(ふたりは以前ここで初めてのキスをした)。彼はスーツ姿にブルーのネクタイをして、紺色のトレンチコートを羽織っている。緊張しているようにはまったく見えない。彼女も緊張していない。道を歩いている間中、彼は何も話さなかった。彼女も、少し遅れたことをわびる挨拶以外に何も話さなかった。アイスピックは化粧ポーチの中にある。そのことをぼんやり考えていた。彼女はまだ自分の覚悟が本当だという実感もなかったし、その確認をしたいとも思わなかった。ただ、なりゆきのままに。どちらかというと、どうでもいい、と考えていた。
個室に着いてから、彼はトレンチコートとジャケットを脱いだ。彼女も黒いチェスターコートを脱いだ。彼とはじめて会った時着ていたのと同じものだ。
彼が口を開いた。「そのコート、初めて会った時に着ていたものだね」
「そうね」と、彼女は答えた。

しだいに注文した料理が完全に運ばれてきて、彼は少し酔っているようだった。彼女はアルコールを一切飲まないでいた。
彼女が口を開いた。「酔っているみたいね」
「いや、酔ってはいない。俺も大人になってから、飲むほど醒めるようになったんです、あなたが昔そう言って飲み過ぎた時に言った言葉を借りると。けど、俺のはいいわけでなくて、事実ですよ」
彼女があごをひいて臨むように彼を見つめたら、彼が、俺も大人になったんだ、とつぶやくように言った。
「あなたは、無事就職して社会人としての暮らしに慣れてきたから、いわば私と一緒にいる時に必要だった(そして今後も必要だと思われる)”資格”が確実に手に入って、もう一度私に会って、過去に復讐したかったんでしょう、私がかつてあなたに『あなたは私と将来をのぞんで一緒にいるための資格がないのに私の愛情に横着している』と言って疑義を示したことに反論したいのでしょう」と、彼女がだしぬけに言った。
「反論、そうかもしれない、それも少しは」と彼が答えた、「けど、俺は自分が間違っていたとも思わない代わりに、あなたが間違っていたとも思わない。そして、俺とあなたはまだ始まってもいないうちから別れてしまった。むろん俺が別れを告げたからあなたがそれに従ったということに違いないけれども。俺は、いずれ自分が大人になるんだと言う事も知っていた、そうして、なるべくその頃も大人になっている俺を示したまま(あなたにそれを承認してもらったまま)大人になろうとしていた。そんな甘い事を考えていたんだ」
「あなたには詩情を大事にするというところがあって、自分の汚いところもみっともないところも相手に見せないままで死ぬことだけが念頭にあったように見えます。一番近しいはずの恋人にそんなことをしおおせたまま死ぬ人間なんてどこにもいません。あなたは、私に夢を見ていた、夢だけを見ていた、愛を見つめようとしなかった」彼女はちょっと顔を伏せて、「私は夢じゃなくて、あなたに愛を示してほしかったのに、ずっと」と、わずかに聞きとれるほどの声でそっと言った。
「俺は大人になろうとして、それでいて、子供でもなかったはずなのに大人にもなれなかったんだ。そのことであなたを苦しめたんだと今なら虚心坦懐言える。今、あなたがまだ会える距離にいるというのは俺の幸運だったと思う」
「あなたは夢を見ることで手いっぱいだったのよ。だから私に愛を示すのがおろそかになっていた。あなたは私を暗黙のうちにこう強いていたの、”俺が大人になることがあなたへの愛を示す最短距離なのでその手伝いとして夢を見させてください”って。夢を見るのも好いけれども、私は相手からなにも与えられずにいてそれができるほど強くはない。というか、おそらく、世の中の男女問わずふつうの人間は、相手から受けとるものがあって、自分も相手に与える余裕なり思いなりが生じるものと、私はそう信じているわ。私はあなたから好意を示して貰える、あなたの『過剰』が見える瞬間をずっと待ち望んでいた。本当に相手を望むのなら、男としてぎりぎりの熱情を持っているはずだし、そうしたものは自分ではコントロールできない衝動みたいに表に出て来るからね。連絡がひっきりなしにきたり、自分のことを訊かれてもないのに話してみたり、というような」ちょっとなにかにひきとめられたような顔を彼女がした、けどその影の様なものはさっとどこかに消え、そして「私たちはずっとはじめから出会い損なっていたの」
「俺はあなたに約束してもしなくても、不安にさせる中途半端な時にあなたに会った」
そうね、と彼女は言う、「誰のせいでもないわよね。お互い、相手からやさしさを借りたままだったのかもしれないね」
「とくに、俺が」と彼が言った、「俺があなたから借りて、借りっぱなしだった。金銭のことじゃないんだ。男としての矜持を示しながら、守ろうとしながら、俺には男としてそうあるための条件もなにも具えていなかった。たとえば、今みたいに、自分でお金を稼いで自活してというような。今だってまだかけだしだけれども、それでも俺はもう子供じゃない。今なら、俺は、あなたを」と言いかけて、黙った。
「私はとても自分を責めていたのよ。私にもう少しでも社会的なステータスなり経済力なりがあれば、あなたをもっとうまくリードできたのかもしれないのに、って。けど、そういう理由で自分を責めるのは、前のどうしようもない恋愛でこりごりだったから、しだいにあなたを許せなくなっていって、私はとうとう感情的にヒステリックになった。おかしくなっていた。あなたはやさしかったわね。原因が解決になるわけじゃないとわかっていたのに、私はあなたと一度大きな喧嘩をした時にあなたを受け入れてしまった」彼女の眼がうるんだ、とても後悔したのよ、と恨めしさをにじませて口にした。料理には全然手をつけていない。彼も、何にも箸をのばさずにいた。

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