ゆっくりとさよならをとなえる

いざ、生きめやも/さよならの学者に、なりたい

【小説】春(2)

そのアイスピックは全長15cmくらいのどこでも売られているタイプのものだった。彼女はそれを、近所のホームセンターで、半年前に手に入れていた。アルコールを飲まないから、そのための氷をかち割る為に買ったわけじゃない。ホームセンターで手に取った時から考えていたのは彼女に別れを告げていなくなった彼のことだった。彼女は自身の手になじむアイスピックを品定めして、女の力で人を殺すには、これが効果的だと踏んだものを購入した。彼は必ず私の許に戻ってくるだろう。彼女の確信は間違っていなかった。以下がそのいきさつである。

『まきなさん
突然、なんの予兆もなく、こんなふうに手紙を送って、とても混乱させてしまうんだと思う。ごめんなさい。
僕も忙しいけど、日々つつがなく過ごしています。あなたのことは、あなたの作品を本屋で見かけるたびに少し考えていました。お元気でしょうか。
あれから半年がたって、お互いもうわだかまりもなにもなくなっているんじゃないかと思って、勇気を出して声をかけてみました。僕は、あなたの混乱や困惑をかえりみないわけじゃないのに、それにもかかわらず、あなたと一度会って話したいと思ってからそれにとりつかれるような時間を幾日か過ごしました。考えすぎて憔悴したと言っていい。けど、もう一度あなたに会ってみたいという気持ちが最終的に残ったのです。
自分勝手を言ってるのは承知です。一度僕に会ってくれませんか。簡単に美味しいものでも食べに行きましょうと言って、信用されたらいいんですが、僕にそんな資格はないですよね。けれども、話がしたいという気持ちだけが本当で、それ以外に意図はありません。お返事待っています。』
文末に、彼の名前が記されていた。封筒には彼女の住所だけが印字されていて、送り元は書かれていなかった。
彼女は、ついに返事をしないで一週間を過ごした。すると、電話が鳴った。彼女が自室で小説の案をのつそつしながらまとめている昼間だった。小説の案は、またてんでに散らばって、形を失くした。編集者は空気を読まないと前から思っていた。
ディスプレイの数字の列は、おぼえのない番号だった。
「・・・・・・俺」男の低い声だ。
はい、と彼女は返事した、「・・・・・・どちらさまですか」胸騒ぎがした。
ひゅっ、と息をのむ音が受話器の向こうから聞こえて、意識の底ににじんでいた名前が音声になって鼓膜を震わした。彼だ。ざわついていた気持ちが一気に凝結した。
「ああ・・・・・・」と彼女が言った。相手は黙っている。どこにいるのだろう。とてもしずかだ。
元気?と、彼女は聞き返した。混乱を押しのけて、秩序を優先しようと懸命になった結果だった。
うん。・・・・・・元気、です。彼が敬語で答える。嘘ばっかり、と彼女は思った。けど、たとえそれが嘘だとしても、嘘でしょ、と彼女からいうのは間違っている。言えないから言わないのではない。
「結構ね」と彼女はうけおった。「あなたは一時的に堕落したり無茶をして自身をスポイルしようとしていたようだけれど、環境が変わって大人になって、私を思い出したということかな。私は小説家になったわけだから、本を読むあなたからすれば、いやでも気になってしまう立場だよね」予期せず饒舌に言葉が出た。サインください、なんて言われたらどうしよう。気味が悪い。
「手紙は、届いたのだろうか」と、彼が言った。私に手紙を出そうと思ったのはどうしてでしょうか、と彼女はすぐに訊き返した。「もしかしたら、もうとっくに引っ越しているかもしれない、というふうに考えなかったの?」私にほぼ届くだろうと見積もったのを、彼の自惚れと思った彼女は不快をおぼえた。そしてそれをほのめかした。
違う、と彼が答えた、「そういう意味じゃないんだ、たとえ引っ越したとしても、その場合なら俺に手紙が戻ってくるという話なだけで・・・・・・、1週間して戻らなかったから、届いたんだと思った。それはあなたがまだそこにいるという証拠だ。それに届いたのに返事がこないという事もわかったから電話をした」、僕はこれでも、(と言って、固唾を飲む)、耐えた方なんだ。
彼女は自身の頭に血の上っているのを感じた。胸が詰まって、この電話の行く末に憤死するんじゃないかと思った。
「手紙は読みました」と、彼女は固い声で言い放った。
会ってくれないか、と彼が言う。彼女は半年前の彼との別れとその周辺に関する事を、昨日の事のように手にとってその重みを確認し、つい声が上がった。
「それは私が半年前にあなたにお願いして、聞き入れられなかった言葉です。なぜあなたが今、そのように私に言うのでしょうか。もうあなたの都合のいいようには動きません。社会人になって、自分が通用する場合というのがいかに奇跡的な事か、あなたもわかったでしょう」こんなことが言いたいわけじゃないのに、と彼女はちらと思った。しかし、言葉が奔流のように出て、自分の思う通りにならない。
会ってほしい、と湿った落ち葉みたいな声で彼が言った、「会って、話がしたいだけなんだ」
「話がしたいだけなら、今、聴きます」と彼女が答えた。彼女は自信の根がぐらぐらと揺れ動くのを感じた。
「会いたいんだ」と、彼が続けた。
「あなたのセックス・フレンドになるつもりはありません」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味だと言うのですか。他の意味をあなたに証明できるのですか」
「・・・・・・お金を返したいんだ、あなたに」押し出すような声で彼が言う。
いまさら?と彼女はばかばかしい気持ちになった。
「なんのお金?」
「あなたに就活で世話になった時のお金だよ」
「郵便為替で送ってください」
「大金だから、そうはいかない。会って、挨拶もして、ぜひ直接手渡したい」
「いい度胸しているね」と、本心から言った。皮肉が入っていると思われたかもしれない。それで間違いはないけれど、彼が大人になった事の称賛の気持ちの方が大きい。
「あなたがなかなか謝らない人間だということを私は知っている、苦しいくらいにね。お金はもういらない、と言ったら、あなたは私の家に来るのですか?そうして謝る気持ちがあるのですか?」私は、馬鹿な事を訊いている、と彼女は思った。茶番だ。
「金であなたに義理を立てようとしているわけじゃないんだ。ただ・・・・・・」と、彼がしばらくして、「義理を立てて、それでおしまいにしたいという気持ちが僕の本懐じゃない。あなたと話して・・・・・・あなたと関わりたい気持ちがあって・・・・・・、少なくとも、これまでの考えであなたについて考えるのでなく、新しい視座であなたを考えたいと思っていて・・・・・・それで会って話したいと思ったんだ」
そう、と彼女は気の抜けた声で言って、「じゃあ、やっぱりお金は返してもらう事にしようかな」と答えた。彼は、一瞬彼女のその言葉の意味を推し量りかねると言ったような空気を受話器越しに伝えた。
「あなたに会って、あなたが大人になったというのを実際の眼で見たいという気持ちも本当だから」と、彼女は付け加えた。