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ゆううつ日記

いざ、生きめやも/さよならの学者に、なりたい

【小説】春(1)

夢。彼女は小説を読んでいた。文字列を拾いつつ自身の内側にある声に耳を澄ますという現実の作業と変わりないのだけれども、夢の中のそれは、信じられない官能を彼女に呼び起こした。揺りかごの安心感とクーラーの効いた真夏の夜にわざと毛布をすっぽりかぶる全能感。文字列は彼女の眼の前にあって、意識が立ち上がると、たちまち溶けてあとかたもなくなるのが常だった。優しくて落ち着かせるような声は、より優れた完成形の自分が今の不完全な自分を何ひとつ間違わずに補うという感じがした。
そのまま目が醒めるんだろうな、と彼女はゆめうつつに自覚していた、が、今回はいつもと違って、拾っていた文字一字一字がどこかに向かって、ざわざわと頁から這って行った。声はあいかわらず聞こえる。彼女を落ち着かせている。彼女の手元の頁を真っ白にして這って行った文字が、彼女の足元で一か所に集まって、もはや文章でもなく虫のようになっている。不思議に思って見たら、蛇が死んでいて、それに文字が蟻のように群がっている。声はいつのまにか聞こえなくなっていた。

彼女はすうっと目をさまして、もう自分は小説を書かなくていいんだという事をゆっくり確認して、一種の慢心に近い幸福を味わった。印税は十分入ってきて、この歳で大学にも通っている。英文科だ。家族とも、ときどき連絡をとって(たいていは向こうから電話がかかってくる)波乱も破綻もない。歯の矯正も2年かけて、去年の冬に完了したところだ。運転免許も取った。表立って贅沢をするのは彼女の趣味ではなく、自身のインフラを整えるというつもりで、失うしかなかったこれまでのあれこれをすべて実力と、それによって得た金力とで補っていた。だから、あいかわらず安アパートの5階に住んでいるし、洋服もファストファッションのものばかりだ。ただ、靴は良いものを選んで履いている。薄化粧で、何に関しても時代の挑戦を受けてもなお今生き残っているものを好み、髪の毛も潤っている。週一回の全身マッサージで身体をほぐし、時々のウォーキングも楽しんで続けている。エステでムダ毛の処理も完璧にした。通院歴10年以上のうつ病患者には到底見えない。

数年前彼女の小説に、保守的な性格の歴史ある賞が与えられて、それから小説家としての彼女の人生が始まった。時々担当編集者から読者の反応が知らされて、嬉しく思い、また、顔や声も知らないその人に対して自身の味方だという近しい気持ちを抱いたりした。彼女の近親者は父母兄弟を含め全く彼女の小説を読まない。知り合いらしい知り合いもいないから、親愛の情からでも彼女の小説を手にとって読む人は誰も周りにいなかった。通院している病院の医者ですら彼女の小説が発売されたことさえ知らないのだった。彼女は診察室に入ってこの医者と深い込み入った話をするのを避けていたから。いつも薬がなくなったことと病状だけを受付で簡単に伝えて、処方箋を出してもらって済ませていた。彼女は誰も信じていないのだった。しかし、家族は彼女を少なくとも一人前の大人だと信頼していたし、担当編集者も彼女に対して友好的だった。

窓を開けて、ベランダに出た。室外機の上に置いてある鉢植えは今年もおそらく花を咲かせないんだろう。芽すら、何年も出さないのだから。去年の夏にベランダで勝手に死んでいたアブラゼミをその鉢の土に埋めた事を彼女は考えた。虫歯になった右上の親知らずもそこに一緒に埋めていた。なぜアブラゼミを埋めるなんて事をしたんだろう、私は。と、彼女は自身をいぶかしがった。そうだ、別れた彼の面影がそこにあると思ったからだった。当時はまだ付き合っていた彼と、目元とか、なんとなく似ていると思って、ゴミ箱に捨てて終わり、ってできなかったんだっけ。
――今日、親知らずを抜いてもらったんだけど、そういうものってどうしてる?
――上の歯は、土に埋めてたかな、下の歯は、屋根の上に投げてた。
ふと、過去の彼との会話を思い出した。彼女は今日がゴミの日だった事に気付いて、レジ袋を持ってきて、その鉢植えを包んだ。そうして、彼に会いに出かけるついでに、捨てようと思った。春の南風が彼女の頬に触れる間もなく、彼女は窓を閉めて中に入った。
彼女は鏡に映った自身の顔を見て、今日は調子がいい方だと判断した。そうして、日焼け止めクリームと頬紅を塗り、睫毛をカールさせて、瞼に薄桃色のアイシャドウをつけた。バッグの中に、財布と、ハンカチを多めに3枚と、その外こまごました物や文庫本1冊と、新聞紙でくるんだアイスピックを化粧ポーチに入れて、服を着替えた。

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