ゆっくりとさよならをとなえる

いざ、生きめやも/さよならの学者に、なりたい

死刑囚最後の日

明日、会うんだ。実感ないけど。大人っぽくなっているのかな。元気だとわかっただけでもう充分なんだけど。なんで会うんだろう、振られて傷つけられた相手に。傷口にマスタードでもすり込まれるのかな。怖いな。

明日、私は処刑されるんだろう。その可能性も無きにしも非ず。

アンチカタルシス

漱石の『明暗』は徹頭徹尾恋愛小説だと私は思っていて、しかも万年失恋病の人、とくにうしなった相手との復縁や再会を望む人間にはカタルシス足りうる作品になっていると感じた。あれは、未完というだけでもその性質からして、すでにその内容が結末などなくても大いにカタルシスとして他に開かれているんだ。奥まで続いていますね、という出だしから始まり、療養の温泉地での再会と微笑の中での消失。たぶん、漱石にもわからなかったんだろうな、その続きが。そう考えてもとても自然に腑に落ちるテーマを取り扱っているんだと思う。つまり、出会い損ないの埋め合わせはありうるか、ということ。誰にもわからない。ただ、微笑して永遠が見えたような予感の中で、消失。

愛されている人間というのは、愛する人間の及びもつかないくらい残酷だ。元彼のことを思い出すたびその言葉に行きつく。誰かが教えてくれた言葉。ミヒャエル・ハネケの『ピアニスト』という映画が私は大好きで、あの結末も、映画全体も、カタルシスとは大いにかけ離れていて、私はそれを”アンチカタルシス”と呼びたい。監督がインタビューで「この作品は暇つぶしにはならない」と言っていて、ああ、そうだな、と。そしてそれを私は先述の”アンチカタルシス”と呼ぶともっともしっくりくるなあと思ったのだ。

私はここでこうして言葉をならべているけれど、擱筆した時なんのために書いたのか、書くよりもやもやすることがあって、それをなんていえばいいんだろうなと思っていた。そうして、アンチカタルシス、と名付けた。たとえば、彼が偶然でも運命でも、このブログを見つけて読んで、いつの間にか読みに来るのが習慣化していたとして、それは一体なんだろうな?もしそれが事実起こったとすれば、私は馬鹿にされているのだろうか。お別れされた後で私のメールには答えたことなど一度もない彼が、私のブログだけは読む。そうして、その言葉をどう受け止めるんだろう。私にはわかりえないことだ。決してそこには納得できる結論を一人で出せる方法などなく。

もうやめたい、もうブログ、やめたい、とたとえば彼に私が今言ったとして、彼はそれを皮肉な冷たい声と表情で、俺には関係ないし、と言うんだろう。奇妙な親切心から、「残念だね」とも、もしかしたら。どちらにしろ、私たちの間には、『明暗』のような微笑の中での消失などないんだ。

夢の続きを

帰り道で、ふと孤独の中に投げ出されると、彼のことを思い返すのだけど、彼には一緒にいた頃それなりにひどいことをされたし、私の想いに必ずしも答えてくれていたわけではないから、現実的にあるいは打算的に考えると、以前と同じ強さで好きだと思えないし、もうひどい目に遭いたくないという保身が先に立つ。けど、彼を思い出す瞬間が完全にないわけでなく、私は壊れたり汚れて駄目になってしまうより前の頃の夢が忘れられないのだろうと思う。そしてその夢の続きがどこにあるかを知らないから、探しかたもわからないから、しかたなくその手がかりとして彼を思い出すのだろうな。はたして、夢の続きが彼の胸の中にあるか、私の彼を思う手の中にあるのか、それは誰にもわからなくて、その審級は彼にも私にもない、感情論だけでないたろうから、ただなにも聞かずに幸せを見つめて、あるいは馬鹿みたいに期待するしかなく、ただ続けるのみ。続くのみ。水中の苦しみの中で酸素を求めるみたいに。

alone in my room

どこへいってもいいのだけれども、どこへいっても居場所がないという漠然とした確信に支配されて、今の私は、失恋したての頃味わった時間の流れ方をまた味わっている。

誰かに呼びかけると、それの応答が返ってくるまで身動き取れないまじめすぎる自分自身に腹を立てて、しまいに応答のない相手にも腹を立てる。これをなんとかやめないと。もう少し余裕を持たないと。呼びかけられた時の暴力的な衝撃が怖くて、待っている時に受け止める態勢でいるから、不意打ちをされないように、待つ、のかもしれない。待たずにいたほうが自分のためなのに。

もう一度、そこにいるんだという感覚を味わいたい。そこに彼がいるんだという感覚を。

両極端で暴風雨

今、「彼が死ねばいいのに」という呪いや恨みの気持ちと、「彼に再会して話せたらいいな」という執着と懐かしさの気持ちとの間で、心がぐらついて、頭の中で暴風雨警報がなっている。死ねばいいのに、会えたらいいのに。どちらも本当の気持ちで、どちらも嘘の気持ちなのかもしれない。私は、彼について自分がどうすればいいかがいまだにわからないのだ。忘れたらいいかと思うと、忘れられないし、おぼえておこうとすれば忘れていく。だから、どうすればいいか、わからない。

南の風は俺にどう言うの

彼に会えないのなら、京都へ出かけてもつまらないだろう、と思ってもう数日前からずっと京都行をためらっている。けど、彼に会えるから行くんだというのも、違うんだ。この休暇をちょっとでも非日常にしたいと京都行を考えるけれど、結局一人なのだから、非日常でもなんでもありゃしない。彼に会うことがあって初めてこの休暇での京都行が非日常になるのだ。しかし、それは叶わないことだ。

私は彼に会いたいような、会いたくないような気持ちだ。どちらも本当であり、どちらも嘘であるような。けど、彼が会おうよというのなら、その時は清子のようにおっとりと再会したいと考えている。そこは彼次第だけども。

自由になる自由がある、けれど

話すことは準備ができているはず、と自分自身に思うところがあるので、もし私の声が聞こえているのなら、いつでも連絡下さい。言いたいことはないけれど、根性なしかもしれないけれど、『明暗』の津田と清子のように、こだわりなく再会できたらいいな。

蝉時雨

今朝、苦しかった。

蝉時雨が私をどうしようもなくどこへとも行けと駆り立てる。祭りの音がする。夜になってもまだまだ明るい。誰かの隣でいる私でありたかった。

仕事以外の予定ばかりが立て込んでいたらよかったのに。私の隣には誰もなくて、蝉時雨が私の胸を締め付ける。今朝捨てたりんごは5つで、腐って黒く縮み上がっていた。もうりんごの味を忘れた。狂っていた腕時計の時間が戻った。

蝉時雨。鳴りやまない遺伝子のシグナル。当てつけだろうと見え透いていようと、なんだろうと、ここで文章を書いていく。終わらないような、それでいて短い夏。蝉時雨の中で。

syrup16gのアルバムの中では、セルフタイトルアルバムが一番好き。長い夏休みの終わる懐かしさというか、郷愁?のようなものに似ている。夕日を見詰める気分のアルバム。夏が終わる頃、私はどうなっているんだろう。秋が始まる気分の良さはあるけれど、秋が終わる頃の、冬の始まりは耐えられない。春はやってきても永遠に待ち望む季節。

【言葉】それが貴方の未練じゃありませんか

「考えて解ったの」

「解らないんです。考えれば考える程解らなくなるだけなんです」

「それだから考えるのはもう已めちまったの」

「いいえ矢張りやめられないんです」

「じゃ今でもまだ考えてるのね」

「そうです」

「それ御覧なさい。それが貴方の未練じゃありませんか」

 

  夏目漱石『明暗』

小福(こふく)なもの

夢の中に出てきた言葉。小福なもの。取るに足らないけれど、幸福な物事、という意味だった。