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ゆっくりとさよならをとなえる

いざ、生きめやも/さよならの学者に、なりたい

かなしみと均衡(バランス)

なにがこんなにかなしいのかな。言葉にしてしまうと、やっと得た均衡が崩れてしまうようで、言わずにおく。と、苦しい。が、言葉にしても、その苦しみはどうにもならない。ただ黙って、私はひとりでないのになにかが致命的に欠落していて喪失していて、悲しくて、悲しいとも言えずになお愛しい。

例えば、しずかに鼻歌を歌って、町の雑踏の中、行きかう人は誰も聞いていないけれど、私のかすかな歌声はたしかにこのざわめきの一部をなしている。そういうかなしさやさびしさやある種の余裕。満ち足りながら影を追って、あなたはいない。

もうあの一人の部屋には帰りたくない、と帰り道で思う。もう一度会えるなら、砂の城のように倒れて彼の傍で眠りたい。

神様、もう一度、彼に会わせてください。もう一度だけ。

ただ、ふっと好きなんだ、ただ、ふっとかなしいんだ

ただ、ふっと好きなんだ。ただ、ふっとかなしいんだ。もう彼はいないから。

仕事をしている合間に、脈絡なく彼のことを思い出して、人知れず悲しくなっていた。今日は彼と付き合って間もないGWに出かけて初めて手をつないだ時の彼を思い出した、バスを待っている時に。それで、ただふっと好きだなと思って、ただふっと、悲しくなった。

別れ際の彼の冷淡で卑怯な言動の残響もまだ完全には消えていない。もうダメージは少なくなったけど、それでも今も傷ついていることに変わりはない。

悲しくて死にそう、なんてもう言えない。

おはよう、世界。

おはよう、世界。起きぬけすぐに世界が終わることもあるんだな、と思った。私は今心や世界を明け渡そうとしつつある、いや、すでにもう明け渡してしまったのかもしれない。ある一人の残像。その影が残していく私の中で起こること。やさしさだけで生きていけるのではないと言い残した声の響き。それでもやさしくあろうとする誰かの叫び。世界の終わりで。世界の終わりで、そういう応答があった。

きょういちにちずっと

ずっと、終日さびしかった。どうしてだろう。猫でも飼えば違うのかな。薬が切れていて、不調というのもある。もう私を慰めてくれる人はいない。彼は味方から敵に変わっていなくなってしまった。

おはよう、さびしいね

おはよう、地球。どうしてる?私、なんだかさびしくて頭おかしくなりそう。もうおかしいのかもしれない。

彼へのなつかしさがずっと残っていて、身体に波のように打ち寄せる。どうしているだろうな。元気にしてるならそれでいいけど。

本当は今からでもやり直せないかなって考えることがある。馬鹿だよね。お別れされてよかった、と思うことはなくても、別れてよかったとは思う。それは今の私が成長している自分自身だからだろうな。

もう一度、そっと話しかけてみたい。そっと、抱きしめたい。どうしてる?

なぜ、かなしい?

なにがこんなにかなしいのだろうな。毎日やさしくしてもらっているし、私は一人じゃない。けど、お別れされていなくなった人が急に私の心を乱暴につかんで離さない。どうしているだろう、いなくなられてから、あわなくなってから、なおも深く愛するようになった。元気かな。もし、会えたらもうなにもいらない、とも言えなくなってきた、他の大事なものもできたから。けど、会えたらいいな。話をして訊きたいことたくさんあるから全部受け止めてもらいたい。私はたくさんのやさしさの中にいる、けど、ひとりを感じる時がある。

叶うばかりが恋じゃなし・・・・・・

玉ねぎを刻み、きのこをほぐし入れる。ウインナーのかわりにこんにゃくを入れて、トマトスープ。煮込んでいる鍋を見詰めて、ふと、私はこの先誰かと恋に落ちることがあるのだろうかと真剣に考えた。未来は暗澹としている。先行きがわからないけれど、幸先のあるような、幸福の後先に人待ち顔してほほ笑む未来がある。「まあいいや、」と思った、「叶うばかりが恋じゃないし、たとえ一生彼にとらわれたままでも、いい」

出来上がったトマトスープは酸味が効いていた。トマトが煮込まれていないためにまだ酸っぱくてさらさらしている。初夏の味だと思った。

ぽんこつ

今、趣味と実益を兼ねて、英検と日本語検定の勉強をしている上に、ダイエットと健康のためにプール通いと公園ウォーキングも日課にしている。

ここに加えて、フルタイムの仕事が入る。時々ふと立ち止まって怖くなると、私はいてもたってもいられなくなって、彼を呼びたい衝動にどうしようもなく駆られる。「私は大丈夫でしょうか、私は大丈夫でしょうか、ねえ大丈夫だと言って」そうじゃない、そうじゃない、そうじゃない。答えは、そうじゃない。いつまで達成できるか、成果がでるか、どのくらいかかるか、誰にも分らないんだ。私は彼にお別れされる前、勉強していて同じような不安を味わって、よく彼の電話を鳴らしていた。けど、彼はそういう私を癒したりしなかった。私は今も反省している。もっと自分の不安を見詰めて、時間が怖いんです、自分がそれまでに大丈夫でいられるか、と具体的に何が不安か言葉にできていればよかったのに、と後悔している。頭の中が暴風でパニックになっている時は、どうにもならない。今、父親に電話した。冷静に話せた方だと思うけど。彼にこういう風にできればよかったのになと思う。

自分が途方もない無茶なことを成し遂げようとしているんじゃないかと不安になる。無理はしていないつもりだけれども、この先、仕事が入るから。今日はそれで泣きそうになった。泣きたいだけ、泣く。一人じゃ泣けないし、泣くから、きっと同じ影の人がいる。

汚れても壊れても

お別れされて以来、自分はずっと鬱沼とか泥沼を引き寄せていて、自らはまり込んでいってた。理性はひっきょう、私の頼りにはならないということ以外知りえなかった。人はどうして負けているとより一層負けに振り込んでしまったりするんだろう?もうこれ以上負けていられないという局面で負けに行く。

最終的な負けは、美しい負けは、死だけれども、人間は卑しいから生きていく、どんなに負けても。それで潜在的に死を求めて負けようと動くのだろうか?そこに死ではなく、詩が生じる。

心は本当の負けをいつでも求めている?どんなにつらくても、心が歌って、決して負けない、生きている限り、人間は負けないから、本当の負けを求めて、同じように死=詩を求める。

「本当の負けを知りたいんです」

「そんなものはない」

「いいえ、どこかにあるんです、だからこんなにつらくても生きるのをやめないんです、私の心臓は」

「人間は負けない、だからいやしいのだ」

本当の負けは、「どこにも本当の負けなんてない」ということを悟った瞬間におとずれる。どんなに汚れても壊れても、心臓は動いている。だから私はひとりでいられる。

マティスとルオー

絵をみてきた。画家は後年になればなるほど柔らかい明るい絵を描くようになるという発見があった。私の持論だが、マティスのフォヴィズムは花柄やフリルと言った女性の典型的なモチーフと相性がいいんだ。だからもし今も存命ならキャスキットソンとコラボレートすれば、商業的にも芸術家としてもかなり成功したんじゃないかなって思う。

ルオーは黒い線を芸術に消化した西洋の画家。黒い線の芸術なんて、日本の書画くらいかなって思ってたけど、ルオーがいた。「黒は色だ」という主張。キリストすら少し泥臭く描いてしまう。いいな。